昭和36年、「スーダラ節」の大ヒットで一躍、国民的スターになった植木等氏。翌々年には東宝の’無責任’シリーズが始まり、一年間に12本の作品に主演。
「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)などテレビもこなし、クレージーキャッツの超人気者にのしあがった。
私が始めて植木氏に会ったのは昭和40年代の初めだったが、大スターを前にコチコチの私に植木氏は、「よし、緊張をほぐしてやろう」と、なんといきなり朗々と読経を始め、思いきり驚かせてくれた。
三重県伊勢市の浄土宗大谷派の住職の三男に生まれ次兄が3歳で病死。長兄が戦死して、僧侶を継ぐ予定だったというからお経はうまいはず。だが、学生時代はスポーツに熱中。相撲、野球、陸上競技と万能で、短距離は100mを11秒台で走ったと自慢気だった。
映画も好きで、昭和10年代のアクションスター、ハヤブサヒデトに憧れ、中学時代は榎本健一の「森石松」を繰り返し観たそうだ。「僕のルーツはハヤブサさんとエノケンさんかもしれない」と語ってくれた。
”無責任”のレッテルを貼られたが、素顔は酒、タバコ、賭け事をいっさいやらない人だ。
  いつ会ってもおだやかに接してくれて、「芸能人はいいかげん」の先入観を取り払ってくれた人である。
映画のイメージ通りだったのは、「ガッハハハ・・」というあの高笑い。「どこにいてもわかる。名刺代わりだよ」と笑顔を見せていたもの。スタンダードジャズをこよなく愛し、昭和50年にミュージカル「シカゴ」(新宿シアターアプル)の楽屋を訪ねると「オイ、ちょっと聴いて行けよ」と、ジャズ全曲集のカセットをかけて1曲毎に解説までしてくれた。その反面、外車嫌いでスターといえばアメリカの大型車やベンツの時代にも、一貫して、国産の最高級車を乗り継いでいた。
サービス精神は見ての通り旺盛で、常に人を飽きさせない。昭和59年に黒澤監督の「乱」に出演した時には共演者やスタッフの人気を独占。巨匠を交えての食事時間は無言の場だったが植木氏の軽妙な会話が座をなごませたからだ。「監督も思わず吹き出しちゃってね。東京に仕事で帰ると、ロケ先から早く戻れと催促されたものだよ」と嬉しそうに語ってくれた。世界のクロサワを笑わせた芸の持ち主。植木等は今も健在である。



各ページへの直リンクはお断りします。
当サイトにある全ての内容,画像の無断転載を固くお断り致します。
Copyright (C) 2005 Super Cools. All Rights Reserved
SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO