テレサ・テンが5月8日に滞在先のタイで急逝してから、早くも9年が経つが想い出はつきない。
昭和49年に台湾の天才歌手として日本デビュー。初来日の印象は丸顔の親しみやすい少女だった。
19歳と公表されていたが実は21歳。その2年前に香港から来日したアグネス・チャンの人気にあやかって、アイドル路線が敷かれたが、ミニスカートで歌ったデビュー曲「今夜かしら、明日かしら」は売れず、2曲目の猪俣公章作曲の「空港」が大ヒット。ふくよかな面立ちに相応しく、性格もおっとりしていて何時会っても率直な口調に好感が持てた。ビザの書替えで、半年毎に日本と台湾を往復していたが、2年目の来日時には松葉杖をついて現れてビックリ。台北空港の階段で2階から転げ落ちて足を骨折したという。「早く日本に来たかったから、あわてたの」と、そんなジョーク本音に聞こえたもの。「子供の頃にもよく転んで、10針も縫った」と髪をかき分けて見せてくれた。確かに側頭部にハッキリと手術跡が残っていて、活発な少女時代がうかがえた。日本では原宿の交差点にあった2LDKのマンションに母親と2人暮らししていた。
  「中華料理は母の作ったもの以外おいしくない」と外で食べる時はウニやマグロの寿司、しゃぶしゃぶなどもっぱら日本料理。車で移動中にも商店街の看板の仮名文字を読み、日本語のマスターに努力していた。
「空港」ヒット後にスランプがあり、キャバレー回りが続いたが、昭和52年4月に開いたヤクルトホールでの初コンサートが大盛況。デビュー以来の超ミニ衣裳も披露し、その脚線美をほめると、「顔がブスだから脚を見せるの」とはずかし気に笑った。その年の秋には、日大の学園祭にも呼ばれ、学生から「パンツはいてますか?」という意地悪でHな質問も飛びだしたが、「私、そんなにセクシー?」とやり返していた。テレサの口から「キャバレーで酔った人を相手にするより何倍も楽しかった」と学生との触れ合いを楽しんでいた姿に胸があつくなった。国と国のはざまで生き抜いたテレサ。
あのスタジオでレコーディングする時ポケットに必ず手をつっこんでいたテレサ.テンの姿は、ぜったいに忘れることが出来ない。



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