昭和42年、ザ・タイガースのボーカルとしてデビューした沢田研二は最もスターらしいスタートを切る。アイドル時代の人気はすさまじく、奈良の公演では観客が将棋倒しになりけが人が出たしある地方都市では会場から出られず、窓から隣家の塀にハシゴをかけて、サーカスまがいに脱出したこともあった。当時、渡辺プロの新入社員だった私は、中野ブロードウェイに1人住いを始めた彼の部屋がファンレターや贈り物で乱雑になり地方公演の留守中によく整理に通ったが、鴨居という鴨居は何十着ものステージ衣装が引っ掛かってあり、異様だった。掃除を済ませてTV局などで会うと、必ず丁寧に頭を下げて礼をいわれ、好感を深めたものだ。昭和46年にザ・タイガースを解散し、萩原健一らとロック志向の「PYG」を結成したが、2000人の会場に200〜300人しか集まらず、まったく不人気だった。そこでソロ活動を期して、全国10ヶ所で「ファンの集い」を開いたが、その時、私は司会を担当して、ギター1本を手にした沢田と2人旅を続けた。さすがに「ドサまわりですね」とバツが悪そうだったが、会場はどこも満員で自信を深めたようだ。   朝食は決まってホテルの和定食で、大阪では夜中に「腹がすいた」とムクッと起き出して、焼肉を食べに出たこともあった。寝間着に着替える時に、見るともなしに薄いグリーンのブリーフ姿を目にして、なぜかドキッとした記憶がある。テレビ局の弁当なども一粒の米、キャベツの一片も残さず食べて几帳面な性格で、旅行中も替えズボンをきちんとたたみ、バッグに詰めるしつけの良さだった。自分を徹底的に客観視して、毎週水曜日に前週のテレビ、ラジオのリクエスト、各地のレコード売り上げのデーターを担当者に届けさせて綿密にチェック。周囲のおだてや追従にはいっさい乗らなかった。またテレビ放映日が重ならないように収録日に気を配りスタッフにはスケジュール調整に万全を期させていた。まさに完璧主義者だったのだ。そんな沢田にある時、ステージで表情たっぷりに歌っている時に何を考えているのかとぶしつけな質問をしたら、こう答えた。「天井から客席に歌詞が電光ニュースのように流れていて、それを読みながら歌っているんです」。その意外な返事にますます興味をおぼえたものである。沢田研二エピソード2,3へつづく。



各ページへの直リンクはお断りします。
当サイトにある全ての内容,画像の無断転載を固くお断り致します。
Copyright (C) 2005 Super Cools. All Rights Reserved
SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO