アポなしリポーターとして、バラドル人気を集めた松本明子だが、昭和58年「♂・♀・KISS」でデビューした時は、ミニスカートが似合うアイドル歌手だった。四国、高松出身で、小学5〜6年生の頃、地元で収録された「スター誕生」(日本テレビ)を受けて落とされたが、中学卒業後に、東京大田区の親戚を頼って上京。再度の挑戦で合格。渡辺プロダクションにスカウトされて夢を果たしたが、レコードはさっぱり売れず気ばかりあせる日々を送っていたようだ。ましてや堀越学園高校の芸能コースの同期は、早見優と掘ちえみで、ほとんど教室に姿を見せぬ売れっ子ぶり。「学校の皆勤賞をもらうより、仕事がほしい」と、当時くやしそうに語っていたものだ。もっとも家庭科の雑巾を縫う宿題を早見や堀の分まで引き受けてしまう人の良さもあった。その頃のストレス解消法はもっぱら豊島園のジェット・コースター。週に一度は3千円のチケットで終園までねばっていたほど。フジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」で「オマ○コ」と4文字言葉を叫んだのもせっぱつまった気持ちからだったに違いない。   4文字オンナ、として注目されるや、日本テレビの「84キャンペーンガール」に抜擢されたのに続き、バラエティー番組からの出演依頼が急増。まさに”アゲマン効果”てきめんとなったのである。両親が明るく開放的な性格で、血は争えないとも思えた。デビュー直後、両親がニッポン放送の「オールナイトニッポン」にレギュラーが決まった娘の姿を見るために上京したが、よっぽど嬉しかったのか、父親は有楽町の駅前で一杯飲んで、本番中は廊下のソファーでぐっすり寝こみ、「なぜ起こさなかった」と夫婦喧嘩を始めた。「いつもこうなんですよ」と、笑顔の母親に好感をおぼえたもの。祖母がまたユニークで、20年来のパチンコマニアだった。早朝8時から夜の10時頃まで弾き続けて、1万円近く稼ぐ日も多かったというからなかなかの腕。こんなフランクであけっぴろげな家庭に育ったのだから、アポなしに直撃レポーターもケラケラと笑いながらこなせたのだと思う。今や結婚してママにもなった。子育てと女優との両立に励んでいる彼女にエールを送りたい。



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