「普通の女の子に戻りたい」の名言を残し、昭和53年の後楽園球場サヨナラ公演で解散したキャンディーズ。もともと強烈なスター願望があったわけでなく、学校のクラブ活動のノリで東京音楽学院で歌やダンスを習っていたところ、NHK「歌謡グランドショー」のアシスタントに抜擢され、人気歌手のマイクを運んだりしていた。デビューしても2年間は全く売れず昭和50年、5枚目の「年下の男の子」の大ヒットでやっと芽が出た。特に売り込みもせず、その普通感覚が若者の共感を呼び、同年の秋には都内25大学の学生たちの人気投票でトップに選ばれ、蔵前国技館に15.000人を集めてコンサートを開いた。人気者になってからも生活はいたって地味で、地方公演先などでは小説を読みふけっていた。
田中好子が松本清張ファンで、「砂の噐」や「影の車」を伊藤蘭に貸してやったり、藤本ミキは夏目漱石の「こころ」を愛読していた。当時「スターらしくないね」と私がいったら「だから、これをお揃いで買ったの」と見せてくれたのが10kのリングとネックレス。それぞれハートや蝶などデザインは違っていたが、「確かにキンキラだ」と大笑いしたことがある
  TBS「全員集合」で、ザ・ドリフターズのメンバーとのマット運動で青アザや生キズが絶えず、水着撮影の時には「キスマークと間違えられる」と特に太腿のあたりにはファンデーションで念入りにカモフラージュするなど苦労していた。
田中の母のすすめで、健康法に3人が毎日欠かさず口にしていたのが梅干しだった。グループ名とは裏腹に甘い菓子類を間食している姿を目にしたことはなかった。
昭和52年7月日比谷野音のステージで突然の解散宣言したが、実は春の全国ツアーの宿で3人が連日話し合って決めていたもの。まぶたをはらして「もう、疲れちゃった」という3人の言葉が思い返される。
新人のピンクレディーの台頭で、衣裳や振りも過激さを増し、反発もあったようだ。
「私たちは売れない時期もあったのに、パッと人気が出たグループはこの先が心配」と皮肉っぽく語ってもいた。
ミキは引退したが、女優として復帰したランとスーには、普通の生活はやっぱり退屈だったに違いない。



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